ベルリンの壁
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東ドイツ当局により建設中のベルリンの壁。(1961年11月20日)壁の前のブランデンブルク門。左側が東側で右側が西側である。(1961年)壁による分断を示すベルリンの地図

ベルリンの壁(ベルリンのかべ、: Berliner Mauer)は、1961年から1989年までベルリン市内に存在したである[1]

冷戦下でドイツは、東西陣営に西ドイツ東ドイツ分裂していたが、往来が自由であった西ベルリン東ベルリンの境界線を経由して東側から西側への人口流出が続き、東ドイツに深刻な影響を及ぼした。東ドイツは自国の体制を守るべく、1961年8月13日、突如として東西ベルリン間の通行をすべて遮断し、西ベルリンの周囲をすべて有刺鉄線で隔離、のちにコンクリートの壁を作った。

このベルリンの壁はドイツ分断の象徴であり、かつ東西冷戦の象徴でもあった[2]。そして1989年秋の東欧革命にともなう東ドイツ国内の混乱のなか、同年11月9日に東ドイツ政府の不用意な発表から、壁の国境検問所がなし崩し的に無効になり、やがて壁そのものが撤去された。これは「ベルリンの壁崩壊」と呼ばれている。
概要東ドイツにある西ベルリン。ベージュが西ドイツでその右の東ドイツの中の赤い部分が西ベルリン

1945年5月8日、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線がドイツ無条件降伏により終わり、同年7月にベルリン郊外のポツダムでの会談でドイツの非軍事化・非ナチ化民主化を主眼とする占領改革を進めることで合意された。このポツダム協定でドイツはイギリスアメリカ合衆国フランス・ソ連の戦勝4か国により分割占領され、そして首都ベルリンもこの4か国のそれぞれの管理地区に分割されることが決まった[3]:325。

やがて英米仏3国とソ連が対立し、1948年6月24日にソ連が英米仏の管理地区(西ベルリン)と西ドイツとの陸路を封鎖して「ベルリン封鎖」を行った。イギリスとアメリカは6月26日から「ベルリン大空輸」で対抗し、この西ベルリン市民への生活物資の空輸作戦の成功でソ連は翌1949年5月12日に封鎖を解除し、「ベルリン封鎖」は失敗に終わった。

この決定的な英米ソの対立で、社会主義陣営に属するドイツ民主共和国(以下、東ドイツ)と、自由主義陣営に属するドイツ連邦共和国(以下、西ドイツ)が成立した。この東西両陣営の冷戦時代に入ってから、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が後を絶たず、危機感を抱いたソ連と東ドイツは、1961年8月13日午前0時に突然西ベルリンを包囲し、東西ベルリン間48キロを含む西ベルリンと東ドイツとが接する分割境界線155キロあまりの境界線の通行を一切遮断し、西ベルリン周囲の境界線から少し東ドイツ領内に入った地点に有刺鉄線を張りめぐらせ、その後に巨大な壁を建設した。

以後、東ベルリン市民の西ベルリンへの通行は不可能となり、多くの家族や友人・知人と不意に引き裂かれた。そしてこの後、壁を越えて越境しようとした者約200人以上が越境できずに命を失い次々と射殺されるなどの悲劇が生まれた。なお、「ベルリンの壁」は「東西ドイツの国境の一部」ではなく、英米仏ソの戦勝4か国の共同管理に置かれたベルリンの特異な状況から生じたものである(東西ドイツの国境は、ドイツ国内国境線と呼ばれる)。

その28年後の1989年11月9日夕方、東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策としてそれまで認めていなかった自国民の西側への旅行の規制緩和措置を発表するが、このときドイツ社会主義統一党政治局員で党ベルリン地区委員会第一書記のギュンター・シャボフスキーが不用意に「ベルリンの壁を含むすべての国境検問所から出国が認められる」と発言した。しかも外国人記者の質問に答えて発効は「即刻です」と返答したことによって、多くの東ベルリン市民が壁の前に集まり国境検問所が緊迫した事態を生じて、混乱を避けるため夜遅くに検問所が東ベルリンの通過を認め、なし崩し的にベルリンの壁は開放された。この11月9日の夜に突然ベルリンの壁が崩壊したことは世界を驚かせ、その後の東ドイツの崩壊に至った。
ベルリンをめぐる東西対立4ヵ国に分割されたベルリン西ベルリンを囲むベルリンの壁 丸い記号は国境検問所で、青丸が東西ドイツ市民専用、赤丸が東西ドイツ市民および外国人用だった
分割占領の開始

ベルリンは1701年にプロイセン王国の都となって以降、1871年のドイツ帝国成立、ヴァイマル共和政を経てナチス・ドイツ政権が1945年5月8日に崩壊するまで、一貫してドイツの首都であった[4][注 1]。東ドイツと西ドイツの境界上にあったわけではない。

戦後のベルリンの管理については、大戦が終わる8か月前の1944年9月12日に英米ソ間の協定の第2条で「『ベルリン地区』は当該最高司令官が指定する米英ソの武装軍隊により共同して占領される」と取り決められた。その後、11月14日の協定によりドイツ全体についても協定が結ばれ、各占領軍の政策によるのではなく、ドイツ管理理事会が指揮することになっていた。しかし実際は、各占領軍が自国の占領政策を展開し、各占領地域ではその最高司令官が最高決定権を持っており、独自に命令や法令を発することができる状況になっていた[5]

ドイツの降伏後、1945年6月5日に「ベルリン宣言」が発表され、ドイツは英米ソにフランスを含めた戦勝4か国の分割統治となる。しかし、直前4月のベルリンの戦いの際に東から侵攻した赤軍(=ソ連陸軍)が西から侵攻した英米軍に先んじてベルリンを占領しており、両勢力の境界線はベルリンより西になったため、ベルリン市周囲のドイツ本土はソ連統治地区になった。その上でベルリン市内も英米仏ソ4か国で分割統治したため、英米仏3か国が統治するベルリン市内の地区は周囲をソ連の統治地区に囲まれる形となった[6]

6月14日付の電信でハリー・S・トルーマン大統領は、ヨシフ・スターリン書記長に対して英米仏軍のベルリンへの鉄路・陸路・空路の自由な使用を要請したが、6月16日付の返電は「必要に応じて保障する」という曖昧な内容であった。6月29日に西側は
西側占領地域からベルリンとの間で、3つの高速道路の無制限使用権

指定された鉄道の3路線の使用権

3つの飛行場の無制限の航空路使用権

などを要求したが、赤軍最高司令官ゲオルギー・ジューコフ元帥は、1つの鉄道、1つの高速道路、1つの航空路、2つの飛行場の使用を認める、とした回答であった。

戦後のベルリンでは、先に駐留していたソ連が着々と自国型の新しい秩序を作り上げつつあるところに、1945年7月4日に英米軍が、8月12日に仏軍が進駐してきた。ここで市の4か国統治が始まり、この特殊な形態により、ベルリンは東西両陣営による占領政策が真っ向から対立することとなった[7]
ベルリン封鎖

この西側3か国とソ連との間での占領政策の対立は、1947年から英米ソ間で激しさを増し、1947年6月にアメリカが戦後ヨーロッパ経済の復興と再建を目的とした経済復興計画「マーシャル・プラン」を発表、1948年6月に新しい通貨ドイツマルクを導入する通貨改革を西側だけで実施した。これにソ連が反対してソ連統治地区東ドイツマルクを発行し、強硬策に出た[8]:89。1948年7月24日、ソ連は西ベルリンと西ドイツをつなぐすべての陸上交通を遮断した。これにより交通網だけでなく、水道や電気などのライフラインまで遮断されたため、市民生活に深刻な影響を与えたが、イギリスとアメリカは陸の孤島となった西ベルリンに大空輸作戦を敢行して援助物資を大量に送り、ソ連は10か月後の1949年5月12日に封鎖を解除した(ベルリン封鎖)。

ソ連は、西側諸国が西ドイツの建国と再軍備を目指していると見ていた。西ベルリンを封鎖したのはそれらを放棄させようとしたものであり、そして西側に西ベルリンを放棄させ市を統一し、ソ連に政治的にも軍事的にも依存した国家を建設しようと考えていた。東ドイツの心臓部に西側の拠点があることはソ連にとって都合が悪く、西側が西ベルリンを放棄することになれば、西ドイツの人々も西側に追随することに躊躇するだろうという読みもあった。しかし、トルーマン大統領は「ソ連の圧力に屈することがあってはならないが、全面戦争に発展しかねない対決も避けねばならない」と考え、大々的な物資支援によってその意思を見せつけたことで、ソ連は封鎖の目的を果たせなかったばかりか、西欧各国に自主防衛の強化、また集団防衛体制の構築を促し、1949年4月に北大西洋条約[注 2]が締結され[9]:59-62、結局ソ連にとってマイナスの効果しか生まなかった。

しかし、封鎖の間にベルリン市議会は東西に分裂し、分断国家の歩みは既成事実化していった[10]:73-74。封鎖が解除された直後の1949年5月23日、イギリス・アメリカ・フランス側占領統治地区ボンを暫定首都としたドイツ連邦共和国(西ドイツ)が、10月7日にはソ連占領統治地区にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立、ベルリンが東ドイツの首都となった[8]:90。


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